コミュ障学生の自分語り

コミュニケーションが苦手な文学部生。僕の発言は所属する団体を代表するものではありません。

冴えカノとレイプ・ファンタジー言説についての所見

先日、『冴えない彼女の育てかた Fine』を見てきた。僕はこの作品に典型的なレイプ・ファンタジーの構造があると思っていて、今回は、レイプ・ファンタジーに関する議論と絡めながら冴えカノの話をしたい。

 

冴えない彼女の育てかた』(以下冴えカノ)は、オタクの主人公が、冴えない(=萌えキャラ的でない)クラスメイト、加藤恵を、メインヒロインに据えたゲームを作ろうとする話だ。

 

そもそも、美少女ゲームにおけるヒロインという概念は、性的目的のために存在しているという意味合いを多分に含んでいるので、親しくもない同級生に突然美少女ゲームのメインヒロインになってくれと頼み込むのはセクハラとも言える行動だ。

 


そんな提案を受け入れた加藤は現実にはありえない、完全にフィクショナルな存在である。そもそも、加藤のような明らかにフィクショナルな存在を物語の中に入れ込んでいるのは、当然ながら作者があえて意図したものだ。英梨々や詩羽も典型的な美少女ゲームのヒロインのようなキャラ付けがなされている。*1

 


冴えカノはメタ的な視点が多分に含まれた作品であるが、「倫也と3人のヒロインたちは、美少女ゲームにおける主人公とヒロインたちの関係と同じような関係にあり、その中でもメインヒロインは加藤である」という前提を常に意識させながら物語は進んでいく。

 


さて、劇場版では、加藤と主人公が結ばれる話が語られるのだが、僕はこれを見て、率直な感想として、こういうのがレイプ・ファンタジーと言うんだなと思った。

 


レイプ・ファンタジーについて、その主唱者の宇野常寛の説明を雑に要約すると以下のようになる。(詳しくは宇野常寛ゼロ年代の想像力』を参照)

 


セカイ系(や多くの美少女ゲーム)には、主人公やヒロインの相手を「所有」し、共依存的な関係を築きたいという欲望を肯定する構造がある。だが、相手を自分と一体のものとして飲み込もうというその欲望には暴力性があり、否定されなければならない。セカイ系(や美少女ゲーム)には、その暴力性を隠蔽するために様々な装置が埋め込まれている。主人公の自己反省は、「安全に痛い自己反省パフォーマンス」として、暴力性を肯定する構造を支えているのだ。

 

 

 

ここからはあくまで不正確な記憶に基づく一個人の感想になるので、そのつもりで読んでほしい。

 


冴えカノで、加藤恵は、主人公に振り回されつつも、彼の夢と目標が叶うように支える人物として描かれている。疲れている主人公に料理を振る舞って仕事を手伝う、彼を支えることを目標に生きている女性だ。もちろん、ゲーム作りが楽しいだとか、その他の事情に由来する行動の動機付けはなされている。だが、英梨々のところに相談もなしに行った彼を責めたシーンに見えるように、原則的には彼との共依存関係を求めている人格として描かれている。

 


僕は女性と仲良くした経験が皆無という、女性を語るのに致命的な欠陥がある人間だが、それでも、こんな都合のいい女いないよと思う。大体、作中で加藤が都合のいい女だったから選ばれた(意訳)とあえて明言しているところがもう気持ち悪い。この作品は気持ち悪いオタクの妄想なんだとメタ的に言及したところで、別にそれが肯定される訳ではないし、そういうところが「安全に痛い自己反省パフォーマンス」なんやぞ。まあ、だからこそ、エピローグで倫也が加藤に振られた時は、ガッツポーズしそうになったんだけどね。当然ながら詩羽先輩の妄想やったわ。ラブライブ劇場版で、フィクショナルな作品前提が最後に破壊されるところが好きなのだが、冴えカノにもそれを期待してしまった。やっぱり、嘘が嘘のまま終わるっていうのは気持ち悪いよ。

 


ここまで批判したけど、レイプ・ファンタジーみたいなものに対して無批判な作品ではなかったし、むしろ鋭い批判を内包した作品だったとは思うのよ。ヒロインたちが虚構の存在だということを常に意識させるように作られていたし。最後の加藤が倫也を振る妄想も、多分、現実には加藤のような人間はいませんよ、というメッセージだったと思う。これは完全に好みの問題だけど、僕は作中の現実世界で加藤が倫也に拒絶されるのを見たかった。あまりにも加藤のキャラが嘘っぽいからね。でも、加藤に拒絶される妄想から作中の現実世界に戻った来た時、よりリアル加藤の虚構性が浮き彫りになるという効果はあったはず。*2だって最後に加藤と倫也が抱きあうシーン本当に気持ち悪かったもん。見終わった後、しばらく吐き気が収まらなかったよ。といっても、このくらい気持ち悪い気分になれる作品ってすごいと思うし、おそらく意図してやってることでもあるんだな。レイプ・ファンタジー的な作品の気持ち悪さを抉り出してくれてるというか。振り返ってみたら本当に良い映画体験だった。冴えカノ最高や!

 

 

 

 

 

最後にレイプ・ファンタジー言説について僕の意見を述べておく。あらゆる物語は究極的には暴力性を肯定する構造をどうしても持ってしまうのであって、それは避けられない。僕がレイプ・ファンタジーとして批判するのは、①あまりにも度を越した暴力性の肯定が見られ、かつ、②それに全く無批判である、作品だ。要するに「安全に痛い自己反省パフォーマンス」もよほど酷くない限りは許容しようということだ。メタ的な作品構造への言及は、解釈の幅を広げてくれると思うからである。さて、冴えカノについては正直①には当たる作品だと思っているが、②に関しては、作品内部できちんと批判的視点も提示しているのであって全く当たらない。*3レイプ・ファンタジーのような構造を持ってしまうこと自体は批判対象にするべきではないと僕は考えている。

*1:ただし、美智留は少し違い、フィクショナルなヒロインたちと倫也との関係を外部から眺める立場の人間だ。だからこそ、倫也争奪戦に彼女は参加しない

*2:今思い返すと、現実と虚構が反転してるのが面白い。さっきラブライブ劇場版の話をしたけど、この辺もそれっぽかったな。

*3:宇野常寛は、『AIR』を槍玉に挙げているが、僕の感覚だと『AIR』は①にも②にも当たらない。加藤恵には、仮想上の男に都合のいい存在という印象しか抱かないが、神尾観鈴は、きちんと人間を表象した存在という感じがする。彼女には、彼女なりの人生があり、そこから導かれた彼女なりの生きる目的があるからだ。