コミュ障学生の自分語り

コミュニケーションが苦手な文学部生。僕の発言は所属する団体を代表するものではありません。

価値判断の変化について

今日は一日中人と話していた気がする。

高校生の頃は人とたわいもないことを話す時間を無駄に感じていたが、予備校に通っていたくらいから重要視し始めた。

高校3年くらいに、大きく自分の中の何かが変わった時期があったが、その変化の一貫だったのかもしれない。原因はよくわからないけど。

自分の中の価値判断の大きな変化ってすごく不思議なのだが、他の人はどう思っているのだろうか。

自分以外の人がどういうきっかけで内面を変化させていくのかということがすごく気になるこの頃だ。

 

今日は疲れたのでこの辺で寝る。おやすみ。

 

C.S.なんで今日こんなに打ってこの前の広島戦で打たなかったんや

今更だけど俺妹3巻まで読んだ

   最近久し振りに俺妹を読み進めている。

 


   中2くらいの頃にアニメ2期を見て以来だ。

 


   とは言っても、当時の僕はキャラのかわいさだけでアニメを見ていたので、あやせがかわいかったくらいのことしか覚えていないのだが。

 


   そういう経緯があって、タダの萌えアニメくらいの印象しかなかったのだけれど、その分、先日読んだ1巻に驚かされることになった。

 


   それぞれのシーン同士の結びつきがしっかりしていて、飽きさせない構成になっている。ギャグも面白いし、エンタメ小説として完成度が非常に高いのだが、何よりも、主人公・京介のパーソナリティに感情移入できるように力を入れた工夫がたくさん凝らされている。最初に彼の人生観は語られるしな。そうした主人公の目を通して、他のキャラも肯定されていく、というのが俺妹の核になるストーリーだ。

 


   1巻読んだときはもう本当感無量だったね。

   最期の方の桐乃の叫びは、オタク趣味始めたばかりの頃を思い出して泣きそうになっちゃったよ。

 


   まあそんなこんなで、今日は3巻まで読んだんだけど、マジで凄くてびっくりした。1巻超えたよコレ!

 


   基本的なあらすじとしては、何をやらせても天才・桐乃が書いたケータイ小説が話題になってデビューの話が来るのだが、一生懸命書いた小説が狡猾な小説家に盗作されてしまう。それを知った京介と黒猫が出版社に乗り込んで盗作を訴え、桐乃の著作権を返してもらうために奮闘する、というもの。

 


   中でも圧巻なのは、凡人・黒猫の桐乃に対する感情がむき出しになるシーンだ。

   才能を持つものへの嫉妬心。努力が報われない不満。自分のものとはズレる社会の価値観に対する違和感。

   どれも僕(おそらく大多数の人も)が抱えて苦しんでいる普遍的なものだ。

 


   当然、黒猫の苦しみは京介に肯定され、桐乃の著作権も戻ってめでたしめでたし。3巻は幕を閉じるのだが。

 


   いやあ、こういう誰もが共感する後ろめたい感情をキャラに吐き出させて、全肯定しちゃうの、本当に上手いストーリーっすね。しかも嫉妬の対象の桐乃もひっくるめて肯定しちゃう。価値観の押し付けを感じないし、誰もが持ってる感情なんだから、気持ちよくならないわけがない。問題も解決するしね。

 


   いやあ、自己肯定感低い低いマンの僕は、こういう話を摂取しないと生きていけないんすよ。オタク向け作品はこういうの多いから心地いいんだよなあ。

 


   とにかく俺妹最高や!みんなも生きるために俺妹3巻読もうな!!

恋愛の話

   場所は伏せるが、今日の夜、外を歩いてたら高校生男女2人組を見かけた。影になってる目立たない場所で、男が女の服の袖を掴んで近距離で顔と顔が向かい合っている。完全にそういう雰囲気だ。男女の周囲は、どこか甘い、鼻腔をくすぐるような緊張感に満たされていて、まるで結界が張られているみたいだった。

 


   空気を察して引き返そう、というのが普通の考えだろう。

 


  もちろん僕がそんなことをするはずもなく、結界に堂々と入り、チラチラと視線で二人を威嚇しながら通り過ぎた。なんで恵まれない僕が、あんな奴らに配慮してやらなきゃいけないんだよ。

 


   振り返ると、案の定、二つの頭が重なっている。チクショウ、止められなかったか・・・

 


   大学入ってから気づいたが、どうやら僕にとって恋愛というのはものすごく難易度の高い行為であるようだ。彼女を作るためには、身だしなみに気を使うというだけじゃ足りない。言動も日々注意して、魅力的な人物を演じる必要がある。身だしなみはまだなんとかなるとしても、言動に関しては、アスペが入っている僕にはどうしようもない。

 


   こういうことを考えていると、結局いつも、既存の非実在少女で満足するしかないという結論に至るのだ。ただ、それもマンネリ化してきているんだけど。このマンネリに対処するための解決策は、もう自分で理想の女性を作りあげるしかないのかもしれない。

 


   女装して自分が女の子になるか、絵を描いて好みの容姿の女の子を生み出すか、何か物語を創作して好みの性格の女の子を作りあげるか、今僕が考えているのはこの三択だ。彼女を作るよりはるかに実現可能性が高いと思う。

 


   この三つのどれかを達成する。これが、最近の僕の大きな目標である。思いっきりこじらせオタクみたいだが、もう僕にはこれしかないのだ。やってやるぞ。

 

 

 

 

 

   本当にこれ以外ないのかなあ・・・

ひさびさの更新(池田屋・テラフォーマーズ)

突然半年ぶりの更新して言うのもなんなんですが、実家に帰省中、ずっと二郎系ラーメンが食べたかったんですよ。

 

ところで、二郎系の快楽のかなりの部分ってマゾヒズムだと僕は思うんですけど、わかりますかね?

苦しむために二郎系に行き、二郎系に行くために苦しむのが二郎系にハマったものの宿命なわけです。

 

まあそれはともかく、300gの太麺への欲望に耐えに耐え!ようやく!今日!二郎系ラーメン店に向かったわけですね。

 

 

僕が店に着いた時、まあ当然想定すべきではあったんですけど、長い列が出来てた訳ですよ。

だいたい10人くらいはいましたかねえ。

そこで気づいたんです。暇つぶし手段がないことに。どうすんだ俺!と焦った僕の解決策がこれです。

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10冊で500円!いやあ安いねっ!

何か買って読もうと思って古本屋に行ったんですが、これを買うのは必然だったなあ・・・

 

まあてなわけで、店でラーメンを待つ間、ずっとテラフォーマーズ読んでたんですけど、やっぱ有名なだけあって面白いんですよ。

 

巨大化ゴキブリと戦う話なんですが、マァーーよく人が死ぬ死ぬ。主人公の幼馴染なんて戦闘開始の瞬間で殺されるしね。またキャラの過去が暗いわ暗いわ。特に蛭間ってキャラの過去はブ男の悲哀が凝縮したような話で、僕自身みたいで辛かったね。

 

それでね、絶望に支配された状況でも、主人公たちは生きる意志を捨てないんですよ!ありえんくらい強いゴキブリたちに立ち向かっていく。それからは、意志の力!逆転勝利!死にゆく仲間との別れ!ってお決まりの展開。アツくならないわけがないですよ。

 

テラフォーマーズは、最初に苦しい思いを読者にさせといて、その後の歓喜の勝利を引き立てているんですね。

ただ、それだけじゃなくて、何だかんだ人間はマゾですから、悲惨なシーンで辛い気持ちになること自体にも、何らかの快楽を感じてると僕は思います。

この前読んだ脚本術の本にも、いい脚本は観客に喜怒哀楽ありとあらゆる感情を体験させるって書いてありましたしね。繰り返しますが、人間は本質的にマゾなんで、快楽を感じるためには苦しまないといけないんです。

 

つまりね、何が言いたいかっていうと二郎系もテラフォーマーズだってことなんですよ。

 

皿に高く積まれたヤサイ、圧倒的な物量で攻めてくる太麺、健康に悪そうな脂身の多い肉。

 

もう食べるの嫌じゃないですか。食べきれるか不安でしょうがないですよ。それでも、食べるのを諦めない!作ってくれた店主のため、プライドを賭けた勝負に打って出るんだよ!

そしてェ!意志の力で麺を屈服させた時のこの快感!もう最っ高!!

また行きます!ってなりますよ、そりゃあ。

 

やっぱり二郎系はテラフォーマーズ。誰も異論はないですよねえ?

 

 

アニメ・『ラブライブ!』を三年半ぶりに見て気づいたこと

 


(本稿ではアニメ版ラブライブについてのみ触れる。ラブライブ!の他のメディアでの作品について私は全くの無知であり、その点について触れられないことを断っておきたい。そのため、私が「ラブライブ」と言った場合は特に注記がない限りアニメ版を指していることを注意に留めてほしい。)

 

 

 

   はじめに

 

 私が「ラブライブ!」を始めてみたのは、確か2015年冬の再放送のときだったと記憶している。楽曲の良さに惹かれた私は、ほんのしばらくの間だけ、曲を聴いたりアニメを見返したりを繰り返していたが、すぐに熱が冷め、劇場版が6月に公開されるときには、完全に無関心層になっていた。熱心なファンであった友人に誘われて見た劇場版も大して感動せず、ラブライブとはそれっきりになり、シリーズ二作目「ラブライブ!サンシャイン!!」にも私は全くの無関心でこの文章を書いている今に至るまで一切見ていない。

 

 劇場版を見て約三年半後のこの春期休暇、私は、ちょっとしたきっかけで久しぶりに「ラブライブ!」の再視聴を開始した。するとどうだろうか。昔見た時には全く気付かなかった「ラブライブ!」という作品が我々視聴者に何を伝えたいのかということがみるみるわかりだしたのである。「ラブライブ!」の未解決の謎とされている劇場版の女性シンガーがなぜ登場し、どう物語に関わっているのかという問いにも私は答えを出した。ネット上で私と同じ解釈をとる人を探したが、見つけられなかった。そこでこの場を借りて私の考察を披露し、私の解釈がどのような評価を受けるか試してみたい。読者の容赦のない批判をお願いする。

 

 

   第1部:ラブライブTVシリーズについて

 

   第1章 ラブライブの作品構造(1期1話~8話)

 

 まず、ラブライブの根本的なテーマとは何か、という話をしたい。


 二期制作決定直後の電撃G’sマガジン2013年8月号に掲載されたインタビューで、京極尚彦監督が1期の制作を振り返っている。インタビュアーの「この全13話で監督が一番描きたかったことはなんでしょうか?」という問いに対する京極監督の答えは、以下の通りだった。


 『第8話のサブタイトルにもなってますが、「やりたいことは」に尽きます。本人がやろうとすること、夢を目指すとはなにかというのを掘り下げたというか。教科書には載っていないけど、体感として得られるものってあるじゃないですか。それをμ’sといっしょにみなさんにも感じてほしかった。(HISTORY OF LOVE LIVE! 2、82ページ)』

 

 「やりたいこと」というキーワードを頭に入れて視聴すると、ラブライブのテーマは、「努力して競争に打ち勝ち成功する」ことでは決してないことがわかる。ラブライブは、ほとんどの回で、「①自らのやりたいことを自覚し、②内面に生じたためらいを振り切って、③やりたいことを実行し自己実現する」というストーリー線に沿って話が展開される。「やりたいことをやる」というのが、ラブライブのテーマなのだ。このメッセージを力強く視聴者に印象付けるために、ラブライブは少々複雑な構造を持っているのだが、それを今から説明したい。

 

 ラブライブの作品構造は、1期1話から9人全員がμ’sに加入する1期8話までの第一段階と、1期9話から2期8話までの第二段階、2期9話から2期13話までの第三段階に分けられる。まずは、基本となる1期1話~1期8話の構造から解説する。

 

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 上の図では、いくつかある●のうちの一つが〇に変化し、「やりたいこと」と書かれた楕円の領域と線で結ばれている。


 〇と●はμ’sのメンバーを象徴的に指していて、


〇は「自分のやりたいことを自覚し実際にそれを実行しているμ’sメンバー」


●は「やりたいことを自覚していないか、自覚しているのに、何らかの内面の障害(恥ずかしさ、プライドなど)があってできていないμ’sメンバー」


である。

 

 この図では全部の〇が一つの「やりたいこと」と書かれた楕円の領域に結ばれているが、これは〇で表されるμ’sメンバーが自分の「やりたいこと」を自覚し、実際にそれを実行している状態を表していると同時に、全く同じ「やりたいこと」を共有している状態も表している。μ’sメンバー全員の「やりたいこと」が完全に一致しているというのは、作中の世界が現実であると考えると絶対にありえないことであるが、ラブライブ世界全体を貫く約束事として理解してほしい。(後述するが、この約束事が現実ではありえないことも覚えておくとよい。)

 

 この点を理解して見るのと見ないのとでは作品の受け取り方が全く違ってくるはずだ。ラブライブでは、μ’sメンバー全員の気持ちが一つになる場面が多いが、「みんな同じ」は、「全員が〇(=自分のやりたいことを自覚し、それを実行している)の状態である」ということを指しているのである。

 

 ラブライブはよくスポ根と言われるが、多くのスポ根作品とは大きく違う点として、主人公たち「子供」「後輩」を導く「大人」「先輩」の存在が欠落していることが挙げられる。その代わりに、ラブライブではμ’sのメンバーが互いを導き、導かれていくという構図が取られているのだ。これは作品全体に共通している。ただし、特に第一段階(1期1話~8話)においては、他のメンバーを導く中心となるのは穂乃果である。穂乃果が主な主体となってμ’sメンバーとなるキャラクターを●の状態から〇の状態へと導くのが第一段階の構造である。

 

 ラブライブのストーリーが始まった段階では、μ’sメンバーとなる9人は全員●(=やりたいことを自覚していないか、自覚しているのに、何らかの内面の障害があってできていない)の状態であった。これまで説明した第一段階の構図を踏まえると、ラブライブ1期1話~3話は、穂乃果に導かれる形で、穂乃果とことり、海未の三人が●の状態から〇の状態へ変わる話とみてよいだろう。1期1話~3話が、μ’s誕生までの物語であるとすると、1期4話~8話は、μ’s完成の物語である。この間は、μ’sに加入するということは●の状態から〇の状態へと変わるということを意味すると見てよい。

 

 4話では真姫、凛、花陽が、5話ではにこが、7~8話では絵里と希がμ’sに加入するが、加入に至るプロセスは一致している。恥ずかしさやプライド、義務感などの「やりたいことの障害」にとらわれて「やりたいこと(μ’sのメンバーは全員一致している)」ができないキャラクターがいて、そのキャラクターを別のキャラクター(第一段階では穂乃果が中心)が引っ張り上げてやりたいこと(=μ’sへの加入)に導くというストーリーだ。


 先ほどの監督のインタビューに出てきた1期8話を例に挙げるなら、絵里の「やりたいこと」は「スクールアイドルをやること」、「やりたいことの障害」は、「生徒会長としての義務感やバレエ上級者としてのプライド」である。


 このストーリーの基本線は劇場版まで維持されることになるが、次の第二段階になると構造が多少変化することになる。

 


   第2章 ラブライブの作品構造(1期9話~2期8話)

 

 μ’sのメンバーが9人全員揃ってしまうと、実は重大な問題が生じる。ラブライブは、1期8話まで一貫して、キャラクターを●の状態から〇の状態に変えることで、「①自らのやりたいことを自覚し、②内面に生じたためらいを振り切って、③やりたいことを実行し自己実現する」というメッセージを強く伝え、感動を高めていた。

 

 ところが、メンバーが全員揃ってしまうと、〇の状態に変わる●の状態のキャラクターがいなくなってしまうのである。このままでは、テーマを変えるか、同じテーマの維持を貫徹するための別の方法を考えるかしかない。結局、転換点に立たされたラブライブ制作陣が選択したのは後者であった。テーマを維持するために編み出された構図が次の図である。

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 〇と●の定義は前回と同様だが、この図では、まず、〇で統一された状態から〇のうちの一部が●に変化し、そのあとで再び〇に戻って統一が再び達成されている。

 

 この構図がわかるとラブライブの様々な謎が解けて面白い。誰かが〇の状態から●の状態になると、必然的にμ’s内での意見の不統一が生まれてしまう。1期終盤のシリアス展開は「誰得」「謎」などと批判されたが、一見唐突にも見えることりの留学や穂乃果のアイドル引退宣言は、二人が●の状態に変わり、一度他のメンバーとの対立を明確化させた上で、再び〇の状態に変わることにより「やりたいことをやる」というメッセージを強く訴えることができるため、必要だったのである。


 また、あそこまで激しく対立しなくても、あるメンバーが自分の本心(=やりたいこと)とは違う行動をとってしまっているということ(=●の状態になっている)を、他のメンバーが知り、〇の状態に再び変わるよう導くという構図は、この第二段階(1期9話~2期8話)の他の多くの回で成立する。第二段階では、あるメンバーを他のメンバーが尾行するシーンが3回もあり、一見するとこれも不自然に見えるのだが、それも今説明したような構図がわかれば理解できる。●の状態に陥っているメンバーは、たいてい本心を隠しているので、それを他のメンバーに知ってもらうためには、尾行させるのが一番自然なのだ。

 

 ラブライブの世界で、暗い雰囲気になるということは、μ’sメンバーの誰かが●の状態になっていることを意味する。ラブライブで描かれる幸福観は、簡単に言えば、〇の状態が幸福で●の状態が不幸、というものなのだ。●の状態から〇の状態に変わることによって明るい雰囲気に変わっていくというのが、特にこの第二段階で典型的に見られるラブライブの基本的なストーリー線である。


 この点を踏まえると次の第三段階の展開がわかりやすくなる。

 


   第3章 ラブライブの作品構造(2期9話~2期13話)

 

 

 ラブライブは2期9話に至って、今まで一貫して取り組んできたテーマから大きく転換し次の段階に移行する。どのような転換が起こったのか、2期9話が象徴的なストーリーになっているので、あらすじを辿りたい。


 2期9話は、最終予選が行われる朝から始まるが、μ’sのメンバーが、家族や仲間と触れ合うシーンが描かれ、彼女たちが、家族の支えと応援、メンバー相互の支えに助けられて活動していることが描写される。次の学校のシーンでも友人たち生徒に助けられるシーンが描かれている。圧巻は吹雪の中最終予選の会場に向かうシーンである。海未が「私だって誰よりもラブライブに出たい」とやりたいことを宣言したそのあと、助けに来た音木坂の全校生徒が表れ、穂乃果たちは彼女らの助けで会場に到着し、μ’sの他のメンバーと合流するのである。この次に穂乃果は手伝ってくれた全校生徒にお礼を述べライブの成功を誓う。

 

 ここではっきりと示されているのは、μ’sのメンバーが「やりたいこと」ができるのは、周りの人や仲間の支えがあるからだということの自覚である。ラブライブのストーリーはここに至って、「やりたいこと」の追求の段階を超えて、自分たちの「やりたいこと」への追求が周囲の人に支えられていることを自覚する段階に移行した。次の10話では、キャッチフレーズを考えることを通してμ’sとは何かという問題への問いかけが行われるが、この回の最後で示される「みんなで叶える物語」というキャッチフレーズはまさにこの転換を示すものだ。

 

 それでは、どうして、μ’sのメンバーは、周囲の人の支えを自覚できたのだろうか?

 

 その問いの答えは、ラブライブがこれまで訴えてきた『「やりたいこと」の追求』というテーマにある。第三段階に入ると、「みんな一つ」「みんな同じ」という言葉が頻出するが、これは、μ’sメンバー全員が〇の状態(=「やりたいこと」の追求)ということを意味している。なぜなら、「みんな同じ」「みんな一つ」と言うとき、メンバーの誰かが●の状態であるときのような暗い雰囲気が一切ないからである。このことから考えて、メンバー全員が〇の状態にあってはじめて、周囲の人の支えを自覚する段階に移行できたと考えてもよいのではないか。周囲の人に支えられていることを自覚し感謝する状態になるためには、「やりたいこと」の追求ができていることが必須条件なのだ。

 

 

 第三段階の展開を考えると一つの謎が解ける。なぜ穂乃果が生徒会長になったかという問題である。1期で絵里が務めた生徒会長の職は、絵里の「やりたいことの障害」となる義務感を生み出し、どこかマイナスなイメージが付いたものだった。そのため、私は穂乃果が生徒会長になったのがなぜなのか、2期の最終回を見るまでずっと疑問だったのである。私なりに考えた理由を挙げていこう。

 

 まず第一に、この第三段階の展開では、穂乃果の生徒会長という設定が大変役に立っているということが挙げられる。2期7話のように穂乃果が生徒会長として学校に対する目に見える貢献をすることで、全校生徒が助けに来るという展開に説得力をもたらし、「周囲の人に支えられていることへの自覚と感謝」というメッセージ性を強めることになる。また、13話でも生徒会長の送辞という形で穂乃果がラブライブという物語の総括をするが、これも生徒会長という立場あってのことだろう。


 また、義務感にとらわれていた絵里とは違う生徒会長の在り方を見せるという理由もあるだろう。穂乃果は、生徒会の仕事をサボっても真剣にやめたいと思うことはなかった。「生徒会の仕事を責任をもって行う」というのも、穂乃果の「やりたいこと」なのである。もし7話で面倒だからと美術部との揉め事を放置していれば、穂乃果は●の状態になっていただろう。


 義務感にとらわれても、義務を放置しても●の状態になる。普段は生徒会の仕事をサボることもあるが、いざ、真剣に取り組まなければならない事態になれば、自らでどうすればよいか考え、問題の解決のために行動する。これが、絵里とは違う穂乃果のやり方なのだ。


 現実の社会で生きるわれわれには、常に果たさなければならない義務がある。課題から逃げない穂乃果のやり方から、普段さまざまな義務に直面するわれわれも学ぶところがあるのではないかと私は考えている。

 


    第4章 テレビシリーズの総括

 

 

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 私が「ラブライブ!」のここまでの話で最も素晴らしいと思う点は、「やりたいことの障害」に焦点を当てたことである。


 単に「やりたいことをやる」というだけの話であれば、そのテーゼをそのまま現実に適用すると、やりたいことだけをやって破滅するなんてことにもなりかねない。ところが、ラブライブでは、まず不幸な状態になるということは、必ず「やりたいことの障害」と本当の「やりたいこと」を自覚できていない状態(=●の状態)になることと同義である。

 

 「やりたいこと」を追いかけていると自分では思っていても、心にもやもやがあるという時点で自分が「やりたいこと」だと思っているものは、実は本当の「やりたいこと」ではないのである。1期12~13話で、ことりは自らの「やりたいこと」を実現するために自らの意思で留学しようとするが、ことりは「やりたいこと」を今から実現しようというのに気分が暗かった。実は留学はことりの本当に「やりたいこと」ではなく、μ’sで活動するという本当の「やりたいこと」の実現を阻む「やりたいことの障害」であったからである。


 「やりたいこと」の追求とは、「やりたいこと」を貫くということではない。まず「やりたいことの障害」を見つけることから始まり、その都度障害を乗り越え、本当に「やりたいこと」を日々更新し実行する営みなのだ。

 

 

 

    第2部:ラブライブ劇場版について

 

 

   第1章 夢と現実を行き来するストーリー

 

 

 私が、ラブライブ劇場版を見た第一印象は夢か現実かわからないというものだった。

    

 そもそも、1期や2期の時点でもラブライブは、現実か非現実かわからないような描き方をされている。1期、2期ともに1話からミュージカルシーンが出てくるし、非現実的に思える展開が多い。

 

 非現実的なものと言えば、一期からずっと貫かれてきた『μ’sのメンバーの「やりたいこと」はみんな同じ』という約束事はその最たるものである。先に述べたように、ラブライブの典型的なストーリー展開は、「やりたいこと」を追求できなくなったμ’sメンバーが、その「やりたいこと」を実は共有している他のメンバーの導きで「やりたいこと」を追求できるようになる、というものだ。

 

 1期1話の穂乃果が雨をやませるシーンや、2期9話の大げさな吹雪のあとに全校生徒が助けにくるシーンのような非現実的な展開は全員が「やりたいこと」を自覚し、「やりたいこと」の共有が完全になったシーンで行われることが多い。こういったシーンは、「やりたいこと」の共有が、非現実的な嘘であることを示唆しているように私には思われる。そういえば、2期12話のラブライブ決勝で歌われる『KiRa-KiRA Sensation!』は、「みんなで叶える物語 夢のストーリー」と歌っていた。ラブライブの世界は、「やりたいこと」の共有という嘘のルールが働く、本当なのか夢なのか分からない世界なのである。「やりたいこと」の共有が嘘の約束事であるということはラブライブ劇場版を読み解くうえで最重要のポイントになる。

 

 さて、ここまで1期と2期の時点でも非現実性が強調されていることを述べてきたが、劇場版では、さらにそれ以上に非現実性が強調されているのである。いくつかポイントを箇条書きであげていこう。

 

・ミュージカルシーンが99分間に3回と非常に多い。

 

・夢のモチーフが多くの場面で登場する。にこの夢もそうだし、空港での穂乃果たちがこれは夢なんじゃないかと言い合うシーンなどは、どこからが夢かという話題で穂乃果が「もしかして学校が廃校に!のあたりから!?」と、この後で私が結論を出す劇場版ラブライブの本質に触れるような発言をしている。

 

・さらに、劇場版の挿入歌はすべて、歌詞の中に「夢」という単語が入っている。

 

・そして極めつけは最後のライブ(僕たちはひとつの光の方)のシーンである。観客の姿がなく、幻想的な空間で歌われ現実感が全くない。その上、ご丁寧にも蓮の花の上で歌われており、非現実的な感じを強調している。このままこの曲の考察を続けたいが、この部分の考察は最後に回したい。

 

 以上のように、ラブライブ劇場版では作中の物語があくまで非現実的な物語であることが意識的に示されている。もっと踏み込んで言えば嘘の混じった物語ということである。このことを指摘してここは次の話につなげたい。

 

 


   第2章 メタ物語としてのラブライブ劇場版

 

 

 ラブライブ劇場版は、虚実ないまぜな物語になっているだけではなく、メタ的な物語も混ぜ込まれている。これは各所で言われていることだが、ラブライブ劇場版は、今までのアニメ版ラブライブの歴史と捉えることができるのだ。例を挙げていこう。

 

・第二回ラブライブμ’sを解散にするつもりだった。


 解説:一期も作った時点ではあれで終わりのつもりだったと思われる。実際にシリーズ構成・脚本の花田十輝は、「一期が終わったら、このプロジェクトは終わります!」というような雰囲気があったと述べている。(劇場版オフィシャルBOOK、29ページ)

 

・人気が出たため突然ラブライブのドーム大会実現のために海外に行って欲しいと頼まれる。


 解説:人気が出たため、ラブライブ二期の制作が決定する。ドーム大会実現というのはμ’sのドーム公演とイコールで、現実のラブライブというコンテンツの発展を指していると思われる。つまり、ラブライブ・プロジェクトの発展のために二期を制作したということである。

 

・海外のライブでμ’sの人気が急上昇する。


 解説:二期でラブライブの人気がさらに急上昇する。

 

・事情を知らないにわかファンが大量発生する。μ’sメンバーは困惑する。


 解説:このシーンはすごい皮肉が効いたシーンだと思う。ラブライブは二期放映後、異常ともいえる人気を得るが、制作陣にとっても思いもよらないことだった。なお、このシーンが現実のμ’sの人気急上昇とリンクしていることは、劇場版オフィシャルBOOKの19ページに示唆されている。

 

・ファンはμ’sの活動継続を望んでいて、ファンとスクールアイドル業界を含む“みんな”がスクールアイドルを盛り上げるために活動継続を望んでいることが、理事長から伝えられる。穂乃果たちはμ’sを継続するか悩むことになる。

 
 解説:現実でもファンはμ’sが続くことを希望していて、ファンやアニメ業界を含む“みんな”もアニメ業界を盛り上げるためにラブライブを続けることを希望する。制作陣もμ’sを継続するか悩んだのかもしれない。

 

・A-RISEの活動継続の決意


 解説:μ’sの活動継続という選択肢にも正当な根拠がある。同様に現実でもμ’sを終わりにしないといけないということはない。

 

・でもμ's解散は変えない。


 解説:それでもμ'sの物語は終わりにする。ここは今までの内面の「やりたいことの障害」を乗り越えて「やりたいことをやる」っていうテーマ通りでもある。μ’s解散が彼女たちの「やりたいこと」で、μ’s存続を求める“みんな”からの圧力が『「やりたいこと」の障害』である。

 

・その代わりに最後にライブ(SUNNY DAY SONGの方)をやる。


 解説:最後に劇場版をやる。劇中でμ’sが最後にスクールアイドルみんなでライブをやる理由は、スクールアイドルの発展のためであった。この劇場版も、ラブライブというコンテンツの発展のために作ったのである。現にこの劇場版は、無印ラブライブの後継シリーズ、『ラブライブ!サンシャイン!!』のヒットにつながっていった。

 

 

 以上のように劇場版ラブライブの表のストーリーは、実は現実のラブライブ・プロジェクトの展開をなぞったものである。私は、その表のストーリーがあくまでラブライブ・プロジェクトの展開をなぞり、なぜ劇場版を作ったのかを説明するだけのものにすぎないと考えている。制作陣が私たちに伝えたいことが込められているのは、背景にある裏のストーリーなのだ。まずは、ラブライブ劇場版の大きな謎である女性シンガーと水たまりのシーンが何を伝えたかったのかという問題について考え、それから、「SUNNY DAY SONG」と「僕たちはひとつの光」のライブのシーンの考察に入りたい。


 ここまで示してきたようにラブライブは、虚実ないまぜの物語である。そこには現実に対する皮肉も込められているのである。一期、二期の構造を踏まえながら、ここを踏まえて議論を進めたい。

 

 

   第3章 女性シンガーと水たまりの謎

 

 

 女性シンガーの正体については、劇場版のオフィシャルブックに監督の京極尚彦氏と脚本の花田十輝氏のインタビューで言及されている。京極監督は、答えをかなりぼやかしているのだが、花田氏は、「穂乃果が己の分身というか、未来の一つの形に出会う」とはっきり述べ、「”未来を描くこと”」は「絶対にやらなくちゃいけない」と強調している(「」の引用はいずれもラブライブ! The School Idol Movie 劇場版オフィシャルブック 27ページより)。


 それでは、彼女が穂乃果、あるいはμ'sメンバーたちの未来を示唆しているとして、その役割とは何だろうか?それは、ラブライブの約束事が壊すことである。先ほど述べたようにμ’sの物語には、『みんなの「やりたいこと」は"本当に"同じ』という約束事がある。μ'sが解散するということはこの約束事が壊れるということなのだ。

 

 ここで穂乃果が女性シンガーとニューヨークで会ったシーンを思い出してほしい。「昔はグループで歌っていたが解散になった、当時はどうしたらいいかわからなかった」と話す女性シンガーに対して穂乃果は、「それで、どうしたんですか!?」と強い口調で問いかける。穂乃果が知りたかったのは、μ’sを解散にすべきかどうかではない。μ’sが解散した(約束事がなくなった)あと、どうすればいいかということだったのだ。穂乃果に対する女性シンガーの返答はこうだ。

 

「今まで自分たちがなぜ歌ってきたのか、どうありたくて何が好きだったのか、それを考えたら、答えはとても簡単だったよ。」

 

 そう。これまでのμ’sの物語を考えれば、答えはとても簡単なのである。

 

 なぜ歌ってきたのか?『やりたいからです!』(1期3話、穂乃果)


 何が好きだったのか?『歌うことが大好きです!』(2期13話、穂乃果)

 

 2期11話では、こんなに素晴らしい仲間に巡り合えたのに、と1人μ’s解散に異を唱えるにこに対して真姫が、「だからアイドルは続けるわよ!」と泣きながら訴えている。たとえ女性シンガーのように周りにμ'sメンバーのような仲間がいなくても、「やりたいこと」の追求をやめないのが答えなのだ。

 

 このことをさらに意識させるのが、次に女性シンガーが登場した場面である。スクールアイドルを盛り上げるためにμ’sが必要であると世間から活動継続を望まれ、A-RISEの活動継続への決意を聞いた穂乃果は、μ’sを継続させるか悩んでいた。そんなときにあらわれたのが女性シンガーである。彼女は、穂乃果に「答えは見つかった?」と問いかけ、「飛べるよ」と言葉をかける。その直後穂乃果が目にしたのは、あの劇場版冒頭のシーンを思わせる水たまりであった。「飛べるよ!いつだって飛べる!あの頃のように!」そう女性シンガーが呼びかけ、穂乃果が走り出す。穂乃果が水たまりを飛び越える間に、絵里たち三年生メンバーのμ’s解散の決意のメールが読み上げられる。穂乃果も彼女らと同様にここで解散を決意したのである。

 

 「飛べるよ!いつだって飛べる!あの頃のように!」は検討が必要なセリフである。


 まず”あの頃”で示唆される冒頭の水たまりのシーンをおさらいしよう。


 このシーンでは、穂乃果は孤独である。なぜなら、ここでは、『μ’sメンバーの「やりたいこと」は同じ』という約束事は働いていないからである。水たまりに諦めずに挑戦しようとする穂乃果に呼びかけることりも、「無理だよ、帰ろう!」と呼びかけているのであって、穂乃果と「やりたいこと」を共有し助けあって一緒に実現しようと試みるμ’sの仲間とは全く違い、穂乃果の「やりたいことの障害」を作りかねない他者として存在している(ただし、解散前のμ’sでもμ’sメンバーが●の状態にあるときは、「やりたいことの障害」を作りかねない他者となりうる。)。

 

 そして、これまでのμ’sの物語の『内面の「やりたいことの障害」を乗り越えて「やりたいこと」を実現する』という図式に当てはめるなら、このシーンでのことりはむしろ「やりたいことの障害」を象徴したものであると言える。「あの頃」のシーンは『μ’sメンバーが全員「やりたいこと」を共有している』という嘘の約束事が存在しない世界を象徴していたのだ。


 次に考えたいのは「飛べるよ!」という呼びかけである。この呼びかけは、裏を返せば、穂乃果が「これから私は飛べないんじゃないか」と不安を抱いていることを示している。最初に女性シンガーが登場したシーンにも穂乃果はμ’s解散後の不安を表明しているが、それと組み合わせると穂乃果の不安は以下のようなものであろう。

 

 「μ’sが羽ばたけたのは、「やりたいこと」を共有したメンバーが、その実現のためにお互い助け合い、「やりたいことの障害」に立ち向かえたから。μ’sがなくなったら一人で、「やりたいこと」を実現しないといけない。もしかしたら「やりたいことの障害」に負けて「やりたいこと」を捨ててしまうかもしれない。やっぱり、自分にμ’s(=仲間との「やりたいこと」の共有という嘘)はまだ必要なのかもしれない。「やりたいこと」を一人で実現できるのは、あの水たまりを飛び越えた子供のころだけだったのかもしれない。」

 

 穂乃果の(あるいはμ’sのメンバー全員の)未来の姿である女性シンガーの人生が示したのは、一人でも「やりたいこと」の実現は可能だということである。穂乃果はこうしてμ’s解散を決意した。あの『みんな同じ』という嘘の約束事はこの時点で壊れたのである。これから穂乃果は一人で「やりたいこと」を追求しないといけないのである。

 

 

   第4章 『SUNNY DAY SONG』について

 


 それなのにその後のライブ(SUNNY DAY SONG)の前日準備のシーンでは、μ'sだけではなく、全員が「思いを共にしたみんなと一緒に」歌うと穂乃果は宣言する。私は、最初これを見て強い違和感を感じた。今まで、「やりたいこと」の共有という嘘の約束事はμ’sのメンバーだけのものであった。テレビシリーズのラブライブでは、大量の描写を使ってこの嘘を本当であるかのように見せかけてきたのである。だから、μ’s以外に「やりたいこと」の共有という嘘は通用しない。μ’s以外も含めた「思いを共にしたみんな」が「一緒に」歌うというのは、今までのラブライブから見ても非常に不自然なのだ。

 

 どうしてμ’s最後のライブがこんな風になったのか。私の考えではμ’sの、「やりたいこと」の共有という約束事が本当は嘘だったのだということを印象付けるためである。ラブライブという作品は、今までは嘘だとわからないように嘘をついてきたのであるが、最後の最後に嘘だとわかるように盛大に嘘をついたのだ。これがμ’sの最後のライブと穂乃果は宣言しているが、これはμ’sの「やりたいこと」の共有という幻想はこれで最後にしようという宣言なのである。

 

 ライブ当日、絵里の呼びかけに応じて、穂乃果以外のμ’sメンバーは会場まで競争を始めるが、穂乃果はひとり立ち止まる。水たまりのシーンを彷彿とさせる花びらをつかんで見つめたあと、穂乃果は走り出す。“一人”で楽しそうに走る穂乃果は、女性シンガーの言葉を反芻していた。穂乃果はここで一瞬、「μ’sはみんな同じ」という嘘の世界から離れて、嘘の約束事のない本当の世界に戻っている。ここのシーンは穂乃果がμ’s解散後の不安から解放され、本当の世界でもやっていけることを示しているのである。


 海未の呼びかけで穂乃果は我に返るのだが、そこに現れた光景は、画面に入りきらないほどたくさんいる“同じ”衣装をまとったスクールアイドルたちの姿だった。ここは一見すると、非現実的な自分の世界から海未の言葉で現実の世界に引き戻されるというシーンなのだが、実際は、本当の世界から嘘の世界へと引き戻されるという構図になっている。穂乃果はここで「みんなが同じ」という嘘の約束事が支配する世界に戻ってきたのである。そして、穂乃果は大勢のスクールアイドルたちの前で「伝えよう!スクールアイドルの素晴らしさを!」と宣言、『SUNNY DAY SONG』のライブが始まる。

 

 さて、この嘘の世界で歌われる『SUNNY DAY SONG』とはどんな曲なのか。冒頭の歌詞だけ引用しよう。

 

楽しいねこんな夢
えがおで喜び歌おうよ
それが始まりの合図
一歩ずつ君から 一歩ずつ僕から
どこかへ行きたい心のステップ

 

 最初からいきなり夢という単語が出てくる。そしてその“夢”を歌おうと歌詞では言っている。


 つまりこの曲は夢=本当ではないものについて歌った曲なのである。


 それに加えて重要なのが、この曲が、穂乃果の発言にあるように、スクールアイドルの素晴らしさを伝えるはずの曲だということである。


 そして、この曲が歌われた場面は、『みんな「やりたいこと」は同じ』という嘘の約束事が、スクールアイドル全体に適用されている場であった。この場面のスクールアイドルの世界は『「やりたいこと」の共有』という嘘の約束事が支配する世界であるという点でμ’sの世界と等しい。そもそも、スクールアイドルとは何かということはこの劇場版で初めて出てきた問題である。この曲が歌っている、スクールアイドルの素晴らしさというのは、『「やりたいこと」の共有』の物語の素晴らしさであり、『「やりたいこと」の共有』によって成り立っていたこれまでのμ’sの物語の素晴らしさということでいいのではないだろうか。

 

 私は、このように解釈すると歌詞の意味がわかるような気がする。μ’sがいかに虚構の存在とはいえ、μ’sのメンバーたちは、μ’sに入ることによって、「やりたいことの障害」を克服し、「やりたいこと」を実現することができたのである。彼女たちにとって、そしてラブライブの物語に勇気づけられた視聴者である私たちにとってもμ’sは「やりたいこと」を追求する上で勇気をくれる存在である。だが、これまで述べたように『「やりたいこと」の共有』という嘘はこれで最後になる。これからμ’sのメンバーはそれぞれ、「やりたいこと」の追求に一人で取り組まなければならない。したがって、この曲は『「やりたいこと」の共有』という嘘で支えられたμ’sの物語への鎮魂歌なのである。

 

 

   第5章 『僕たちはひとつの光』について

 

 

 『SUNNY DAY SONG』がμ’sの物語の鎮魂歌なら、μ’sの最後のライブの曲兼劇場版のエンディングテーマである『僕たちはひとつの光』は、μ’s解散後のμ’sメンバーの決意を歌った曲である。この曲を理解するには、このライブがあった時のμ’sメンバーの状況を知る必要があるが、直接的な描写はないものの、大体の推測はできる。先ほども述べたが、2期11話では、こんなに素晴らしい仲間に巡り合えたのに、と1人μ’s解散に異を唱えるにこに対して真姫が、「だからアイドルは続けるわよ!」と泣きながら訴えている。おそらくμ’sがなくなった(『「やりたいこと」の共有』という嘘の約束事がなくなった)あとも各々が何らかの形でアイドルを続けていたと思われる。

 

 そして、『僕たちはひとつの光』の前のシーンで、雪穂と亜里沙がアイドル研究部の新歓活動をしているが、彼女たちは制服のリボンの色から判断して三年生である。彼女たちが三年生ということは、μ’sのメンバーが全員音ノ木坂学院を卒業したいうことと等しい。したがって、あの最後のライブは、全員の卒業を機に改めてラストライブを行ったものと思われる。

 

 全員が卒業したのならもう一度μ’sを再結成すればいいではないかと思う人もいるだろうが、私は次のように考えている。彼女たち自身にはμ’sを解散するに足る理由はない。実際、A-RISEはスクールアイドルではなくなった後もアイドル活動を続けている。A-RISEのように卒業後も、同じ9人のμ’sとして活動を継続する道もあったはずなのだ。

 

 μ’s解散の本当の理由はメタ的な視点で見ないとわからない。彼女たちがμ’sを解散させなければならなかったのは、μ’sを支えていた『やりたいこと」の共有』という約束事が嘘だったからである。彼女たちは、嘘の約束事を終わらせるために、最後に、三年生メンバーが学校を卒業したらμ’sを終わらせたいという意思を共有したのだ。μ’sが解散しても彼女たちの「やりたいこと」が変わるわけではないので(ただしそれぞれの「やりたいこと」にずれは生じると思われる)、アイドルを続けるのは不自然ではないが、最後のライブの時点では、もう彼女たちは、μ’sから離れて、女性シンガーのように一人で各々の「やりたいこと」を追求している段階に入っていることは確かである。それを踏まえて『僕たちはひとつの光』のシーンを見てみよう。

 

 前述したようにこの曲は「夢のような」とでも形容できる大変幻想的なステージで歌われた。μ’sという存在が嘘だということを強調するためである。さらにそのステージで歌われる曲のタイトルが『僕たちはひとつの光』なのである。「僕たちはひとつ」というのはμ’sを支えた嘘の約束事であった。これから歌詞の検討に入るが、ここでも、あの嘘の約束事は当然歌詞の内容を考える上で重要なポイントになってくる。

 

 

 まずは、『僕たちはひとつの光』の歌詞を一部引用して解釈してみたい。この歌詞をよく読むと、ラブライブ劇場版が最後に伝えたかったメッセージがよくわかるのである。
まずはサビ以外の歌詞について私の解釈を紹介し、最後にサビについて検討する。少々長くなるがお付き合い願いたい。

 

忘れない いつまでも忘れない
こんなにも心がひとつになる
世界を見つけた喜び(ともに)歌おう
最後まで(僕たちはひとつ)

 

 解釈:こんなにも心がひとつになる世界(=μ’sの物語)を見つけた喜びをμ’sのみんなで歌おう(=共有しよう)。


 “最後”までμ’sのメンバーはひとつ(だが、この最後のライブが終わってしまうとひとつではなくなる=「やりたいこと」の共有はなくなり、ずれが生じる)


 ここで嘘の存在であるμ’s(=「やりたいこと」の共有)を讃えているのは、やはり、彼女たちが「やりたいこと」を共有させるμ’sという装置のおかげで、「やりたいことの障害」を乗り越えて「やりたいこと」を実現できたからである。

 

光を追いかけてきた僕たちだから
さよならはいらない
また会おう 呼んでくれるかい?
僕たちのこと
素敵だった未来に繋がった夢
夢の未来 君と僕のLIVE&LIFE

 

 解釈:僕たちが追いかけてきた“光”というのは、ラブライブの今までの内容を考えると当然「やりたいこと」を指す。光=「やりたいこと」とすると、タイトルの『僕たちはひとつの光』というのは、μ’sがやりたいことを共有していることを指すのではないか。
 また、直後の「さよならはいらない また会おう 呼んでくれるかい? 僕たち(=μ’s)のこと」と観客(視聴者)への呼びかけ形式になっていることから、このパートが観客(視聴者)に向けた歌詞だとすると、以下のような解釈になる。


 ずっと「やりたいこと」を追いかけてきた私たちμ’sメンバーは、μ’sが解散しても(「やりたいこと」の共有がなくなっても)、「やりたいこと」を追いかけることをやめない。だから、私たちはμ’sの解散を悲しまないで前向きに生きていきたい。(ここは「さよならはいらない」が呼びかける対象が観客だけでなくμ’sメンバー相互にもかかっていると解釈している)


 ラブライブは、「やりたいこと」があっても一歩を踏み出せない人に向けたアニメである。


 「また会おう 呼んでくれるかい? 僕たちのこと」と呼びかけるのは、「やりたいこと」があっても一歩を踏み出せなくなったとき、μ’sの物語を思い出してほしいという観客に向けたメッセージだと考えたい。


 夢はこの劇場版の重要なキーワードの一つである。ここでは、「将来の夢」と「虚構であるμ’sの物語」の二つを指していると思われる。将来の「やりたいこと」を持ち、虚構の存在であるμ’sに導かれて、「やりたいこと」を実現できた。また、夢の未来は「やりたいこと」を実現した未来を指していると思われるが、君と僕のLIVE&LIFEは、アニメ1期8話に登場し、μ’sが9人そろって初めてのライブで歌われた『僕らのLIVE 君とのLIFE』である。『僕らのLIVE 君とのLIFE』の歌詞はまさに「やりたいこと」を実現するという内容であるため、ここも「夢の未来」と同様の意味だと思われる。

 

 

そして、サビが下の内容である。

 

小鳥の翼がついに大きくなって
旅立ちの日だよ
遠くへと広がる海の色暖かく
夢の中で描いた絵のようなんだ
切なくて時をまきもどしてみるかい?
No no no いまが最高

 

 解釈:まず、「小鳥の翼がついに大きくなって」というのは、1期3話で歌われたμ’sとして最初の曲である『START:DASH!!』の「うぶ毛の小鳥たちも いつか空に羽ばたく 大きな強い翼で飛ぶ」という歌詞を受けたものである。


そしてその次の「旅立ちの日だよ」という歌詞にはそれまで小鳥が巣によって守られ成長してきたというニュアンスだが、この巣とは言うまでもなくμ’sという虚構の装置である。


 『START:DASH!!』のことも含めて考えるとラブライブの物語がどんな物語なのかはっきりする。

 

 μ’sのメンバーはみな「やりたいこと」を実現できなかった(うぶ毛の小鳥であった)。そこに『「やりたいこと」の共有』という約束事が適用されるμ’sという装置(小鳥にとっての巣)が表れた。その力によってμ’sのメンバーは「やりたいこと」を実現した(小鳥は成長した)。しかし、μ’sという装置は虚構のものなので、永遠のものではなく、「やりたいこと」を実現したら(成長したら)失わなければいけない運命にあった。成長したμ’sのメンバーは、μ’sという装置を捨て(成長した小鳥は巣を飛び出し)、一人で「やりたいこと」を追求しなければならない(旅立たなければならない)。

 

 こうして書いてみるとまるで神話のようである。そういえばμ’sは9人の女神だと希が言っていた。ラブライブが虚構の物語であることは、9人の女神というモチーフからも示されていたのかもしれない。ここからもラブライブが初めから虚構の物語として作られていることを再確認できた。

 

 「遠くへと広がる海」についてであるが、ここは最初聴いたとき、大きくなった小鳥が向かう先を指すと私は考えた。しかし、暖かいという形容詞がわざわざ海に付いていたり、海を見て「切なくて時をまきもどしてみるかい?」という流れがあるため、小鳥が旅立った後、自分たちが育った巣がある方向にある海を見ている場面を思い浮かべることにする。ここは、「遠くへと広がる海」=「昔一緒だった暖かい海のような包容力のあるμ’s」と読み替えてみたい。

 

 「夢の中で描いた絵のようなんだ」は、夢というワードからμ’sを象徴しているため、ここもμ’sの物語を想起しておきたい。μ’sメンバーがともに過ごした日々を思い返しているのである。

 

 さて、この曲の一番のキモである「切なくて時をまきもどしてみるかい? No no no いまが最高」というサビの最後の2行である。まず、この曲が歌われたのはμ’s解散から2年ほどたち、μ’sのメンバー各人が、それぞれ固有の「やりたいこと」を追いかけている状態にあるときであることを思い出してもらいたい。「時をまきもどす」とは、『「やりたいこと」の共有』が働くμ’sとして活動していたころに戻るということである。そのため、「No」を突き付けている対象は、μ’sの活動継続という想像である。したがって、「いまが最高」の“いま”とは、μ’sとして最後の活動をしている“いま”ではない。μ’sを解散し、『「やりたいこと」の共有』という嘘の約束事を捨て、それぞれがそれぞれ違う「やりたいこと」を追いかけている“いま”なのだ。

 

 

 

   終わりに

 

 

 ここまで長々と書いてきたが、ラブライブ劇場版が私たちに伝えたかったメッセージを簡単に要約すると以下のようなものになると思う。

 

μ’sのような志を完全に等しくする仲間は現実にはいない。一人でも「やりたいこと」を追求し続けろ。』

 

 

 最後に、ここまでの議論の要諦を簡単にまとめたμ's解散前と解散後を比較した表を貼ってこの文章を締めたい。まだ書きたりないところがあるが、質問などは、このブログのコメント欄や、ツイッター(@taikai_shaか@kurfla_taicir)にお願いしたい。文章を書くのがあまり上手ではなく、読みづらい点があったら、この場を借りてお詫びする。このような駄文を最後まで読んでくれた方がもしいれば、感謝の念に堪えない。

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『陰キャ』のすすめ~『陰キャコミュ障』礼賛~

 

 はじめに

 この記事は、僕のような、集団での人間関係に苦しむ『陰キャコミュ障』たちに向けて書いた。
 特に人間関係に悩んでいる人で、読むのが面倒な人は四節目の『僕がコミュ障に二つのタイプがあると気づいたわけ』だけでも読んでほしい。
この記事を読んで「当たり前のことをわざわざ書くな。時間の無駄になった。」と思う人も多いと思うが容赦願いたい。
 なお、この記事では、『コミュ障』・『陰キャ』といった差別用語をあえて使用した。こうした用語をかならずしも一般的な意味と同じようにとれない文脈で使うことによって、普段何気なく使っている語の意味を土台から揺るがそうとの魂胆である。

 

 『コミュ障』とは何か

 『コミュ障』とは、『コミュ力』のない人を『コミュ力』がある(と自分で思っている)人から指した蔑称である。したがってここでいう『コミュ障』について説明するには、僕の考える『コミュ力』の定義を挙げれば十分だろう。

 『コミュ力』には、円滑な意思疎通ができる能力と、周りの人の意向に配慮できる能力の二つの意味があるが、この記事では、後者の意味で使いたい。『空気』を読む能力とも言い換えられるだろう。したがってここで扱う『コミュ障』は、周りの意向に配慮できない(=『空気』が読めない)人ということになる。
*僕の感覚ではコミュ力とコミュニケーション能力は同じ意味ではない。コミュニケーション能力のほうが意思疎通能力という意味を持つ側面が強いと思われる。

 

 『陰キャ』と『陽キャ

 『陰キャ』と『陽キャ』についてもこの記事で扱う重要な概念になるので説明したい。『陰キャ(=陰キャラ)』『陽キャ(=陽キャラ)』というのは、それぞれ内向的な人間、外交的な人間という意味である。『陰キャ』というのは、人とかかわるのに積極的な人間のほうが好ましいと考える立場からの蔑称で、『陰キャ』が自嘲的にみずから名乗る場合もあるが、『陽キャ』が内向的な人間に対して侮蔑をこめて使う場合が多い。以下、本論に入ろうと思うが、『』はわずらわしいので外すことにする。

 僕がコミュ障に二つのタイプがあると気づいたわけ

 小学校以来、僕はずっとコミュ力の低さに悩まされてきた。とりわけ嫌だったのは、僕のようなコミュ障を排除し、馬鹿にする陽キャの存在である。どんなクラスにもたいてい一人はいた彼らは、僕がコミュ障であるとみてとるや、ありとあらゆる手を使って僕をいじめてきた。僕に話しかけ、返答すると無視したりからかったりする、なんてものは軽い方で、ひどい場合だと授業中延々ずっと、僕の悪口をわざわざ僕に聞こえるような声で喋り続けるなんてのもあった。

 とりわけ、僕にとってつらかったのは、彼らがたいていは集団の中心にいて、その集団内で大切にされているように見えたことだった。

 どうしてあんなやつに友人がたくさんいるんだろう?もしかして僕は世間一般の人から侮蔑されて当然の人間以下の存在なのではないか?
 まだ人生経験を十分に積んでいない中高生のころの僕がこう考えるのは自然ではないだろうか。

 実際僕は、中高時代を通して、世間一般の人間は僕を見下しているというゆがんだ思考を発展させていった。ひどい時期は周りの人間全員が僕を見下している敵なのだという妄想を抱くようになるまで追い詰められた。漫画『聲の形』の冒頭では、希死念慮を抱えた主人公の周囲の人間の顔すべてに「×」が付けられるという表現がなされているが、あれはまさに当時の僕の日常を的確に表現したものだと思う。

 さて、以上に述べたように僕はあの種の陽キャに大変苦しめられた人生を送ってきたが、鬱を克服し、今まで顔に「×」をつけてきた人間と接してみたところ、僕の想像とは全く別の事実が浮かび上がってきた。単刀直入に言おう。彼らあの種の陽キャは大変嫌われていたのである。それも一人だけではない。複数の人から悪口を聞いた。というか僕が聞く誰かに対する悪口は、たいてい彼らのようなタイプの人間に対するものだったのだ。

 僕は今まで、彼らは集団に適応に成功しているコミュ力の高い人間で僕よりも周囲から尊重されている人間なのかと思っていた。ところが、彼らの悪口をいう人からすれば、彼らこそが周囲の意向を尊重しない(=コミュ力のない)人間なのであって、僕は全然マシだということである。僕も今でこそ当然のことだと思っているが、当時の僕は彼らが周囲にそのように思われているという事実は、人生観がひっくり返るほどの衝撃であった。

 以下、彼らのようなコミュ障を一般的な意味でのコミュ障(=陰キャコミュ障)に対置する「陽キャコミュ障」と名付け、僕なりの考察をすすめたい。

 

 二つのタイプのコミュ障

 これから、陰キャコミュ障と陽キャコミュ障の典型例について述べたい。多分に僕の主観が混ざっていると思うが、重要なのは客観性ではなく、読者に、陰キャコミュ障と陽キャコミュ障それぞれをイメージしてもらい、二つの概念に現実性を持たせることである。もとより、両者を分ける境界線はなく、みな両方の特徴を含んだ、それぞれが違った個性を持っているはずである。

 

陰キャコミュ障

 集団でのコミュニケーションでは一種の支配関係が働いている。『空気』を作る人間が『空気』を読む人間を同調圧力によって支配する関係である。通常の対等なコミュニケーションでは、『空気』を作る役と『空気』を読む役をお互いに交代しながら会話は進んでいく。『空気』を読む能力も、『空気』を作る能力もないせいで、この輪に入れない人が陰キャコミュ障と言えるだろう。

 彼らは多くの場合、自分にコミュ力がないと自覚している。

 自覚しているからこそ、集団を避けて一人または二人でいることが多く、陰キャと呼ばれることになる。彼らは、今までの失敗経験から、人に嫌われるのを過度に恐れているだけで、人と接すること自体は好んでいる場合が多い。彼らが集団を避けるのも、集団で会話すると空気を読む必要が生まれ、『空気』を読めなかったことで非難されることが怖いからである。そのため、集団の中に入らざるを得なくなったときでも、ただ黙って何もせず無為な時間をすごすことになる。

 人間不信に陥っている場合も多く人間関係を必要以上に避けがちだが、集団での人間関係に縛られることは少なく、ストレスの少ない自由な生活を送っている者もいる。

陽キャコミュ障

 多くの場合、自分にコミュ力があると誤解している人間である。今までグループの中心で活動していた人が多く、自らグループ内の『空気』を作ることに長けている。集団で活動することを好み、「空気を読む」ことを最重要視し、「空気の読めない人間」をコミュ障と呼んで非難する人間が典型的である。また、彼らは『空気』を作れるがゆえに周りからも「空気の読める人間」と誤解されている場合がある。むしろ自分もそう思っているからこそ集団になじめない自分とは異質な人間を「空気が読めない」と呼んで非難するのである。

 では、なぜ彼らは陽キャ”コミュ障”なのか。

 それは彼らが往々にして周囲に配慮することができないからである。先に述べた通り、通常の対等なコミュニケーションでは、『空気』を作る役は周囲の意向に応じて交代しないといけない。ところが、彼らは、周囲の意向がわからないか、配慮する気がないかいずれかの理由で、みずからの『空気』を作る役を他者に渡そうとしない。その上で彼らは、自らが作る『空気』についていけない人間に対して歩み寄ろうともせずに非難するのである。

 ところで、最初に説明したように、コミュ力(=『空気』を読む能力)とは、周囲の意向に配慮する能力である。他者に歩み寄り、配慮しようとしない(実はできないのかもしれない)彼らの態度がコミュ力の不足でなくて何であろう。また、彼らの他者への非難は、多くの場合、周囲の同意を得られているわけではない。周囲が同調しているのは『空気』を作る彼らが集団内で上位のヒエラルキーに位置しているためであって、彼らの他者への非難に同調しているとは限らないのである。

 つまり、彼らは他者を非難することによって、周囲に不快感を与えている場合が多いのである。ここからは僕の推測だが、その調子だとおそらく他者への非難を行っている時以外でも、彼らは『空気』を作る能力を存分に発揮して周囲の意向に沿わない行動を繰り返していたと思われる。その結果が、彼らへの周囲の嫌悪感につながっているのだろう。彼らには明らかにコミュ力が欠如しているのである。

 以上述べたものが典型例だが、他者への非難をあまり行わない人でも、陽キャコミュ障でありうる。その場合も、『空気』を作る役を絶えずやることによって、周囲を自らが望む行動に半ば暴力的に同調させてしまい、結果として周囲に疎まれやすい点では変わらない。

 

 両者の違いと同質性

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 では、何が陰キャコミュ障と陽キャコミュ障を分けるのであろうか。それは、『空気』を作る能力があるかどうかである。それ以外の点では、どちらも同様にコミュ力が欠如している。『空気』を作る能力があれば、集団での会話の主導権を握ることができるので、たとえ『空気』が読めなくても集団に適応できる。あくまで『空気』を読む能力(=コミュ力)が求められるのは、『空気』を作る人の周囲にいる人であるので、『空気』を作る人がコミュ力も同時に持っているとは限らないのである。

 一方、陰キャコミュ障は『空気』を作る能力が欠如しているので、会話の主導権を握ることはできない。したがって、集団内では『空気』を読むことが求められるが、『空気』を読む能力もないので、集団で孤立するのである。

 ただし、両者はコミュ障という点では同じ性質をもった人間で、実際の会話の場面での違いはあくまで相対的な『空気』を作る能力の力関係によるものである。そのため、陰キャコミュ障の性質を強く持つ人であっても、自分よりさらに『空気』を作る能力が低い人ばかりの集団に入るなどして『空気』を作れる状況になってしまうと、彼はその場でのみ実質的に陽キャコミュ障と変わらない状態になってしまう。陽キャコミュ障を生むのは、あくまで、『空気』を読めないコミュ障に偶然ある程度の『空気』を作る能力があり、それによって集団の上位のヒエラルキーに立つことができた場合である。

 陰キャはコミュニケーションの場での失敗体験を繰り返し、自分が『コミュ障』であることを自覚してはじめて陰キャになる。

 それと同様に陽キャも、集団の中心に立ち続けるという成功体験を積み重ねることによってはじめて、自らの性格・行動をいきすぎなほどポジティブにとらえるようになり、自らと異質な他者を排除する独善性を持つに至るのである。

 陰キャの強み

 では、陰キャコミュ障の強みとは、何であろうか?

 それは、「『空気』を作れない」+「『空気』が読めない」という特質によって、集団でコミュニケーションをする場自体を避けられることそれ自体だと思う。集団でのコミュニケーションが苦手だとはっきりわかっているからこそ、マイナス面の多い集団での人間関係を避けようと思えるのである。

 よく、お酒に弱い人のほうがアルコール依存症になりにくいから望ましいという話を聞くが、それと同様に、集団が苦手な人(=陰キャ)のほうが、集団での人間関係に依存しにくいから望ましいという考えも成立するのではないだろうか。

 人間だれしもが持っている、集団に馴染みたいという欲求はあまりにも強い。典型例の陽キャコミュ障も『空気』を作れる能力があるがゆえに、集団の中に入っていって周囲に嫌われ、結果として、相互に相手のことを思いやることのできる健全な人間関係の構築に失敗しているのである。また、漫画『凪のお暇』の主人公がまさにそうだが、集団で馴染める力を持った人間(=非コミュ障)の中には、どうしても集団での人間関係に依存してしまい、周囲の求めるキャラを演じ続けた結果、自分がやりたいこととのギャップに疲れ、精神を病んでしまう人がそれなりにいる。

 それなら、集団の引力から逃れた先に何があるのだろうか。

 先述した漫画『凪のお暇』の主人公・大島凪は、陽キャコミュ障とは逆で、『空気』を読めるが作れないタイプである。彼女を中心に展開する『凪のお暇』のストーリーは、職場での人間関係に疲れた彼女が、田舎に引っ越し、のんびりとした日々に安らぎを得るというものだ。僕がこの作品で注目したいのは、凪がハローワークで出会った友達、坂本龍子とのエピソードである。オカルトにはまっている彼女は、凪と初めて出会ったときに、ついついパワーストーンのセールスをしてしまった。いわゆるマルチ商法である。凪も一度は拒否感をあらわにした。しかし、自らのセールス活動のせいで友達がいなくなった寂しさを訴えた彼女に心を打たれ、その後はオカルトとは距離を置きつつも彼女のオカルト好きの一面を受け入れ、二人は真の意味で仲を深めていくことになる。

 ところで、もし坂本がセールスをしたのが集団の場だったらどうなっただろうか。

 おそらく、誰かが拒絶の反応を示し、周りもそれに同調しただろう。一度、彼女に対する拒絶の『空気』ができてしまえば、彼女がどんなに自らの本音を吐露してもそれを覆すことは難しく、その場にいた全員と絶縁してしまうかもしれない。その中に、一対一で話せば凪のように受け入れてくれる人がいたとしても、である。

 お互いに理解しあう真の友情関係は、一対一の対話の中からしか生まれない。集団での関係では、どうしてもその場の『空気』に振り回され、自らが相手に対して思った考えが捻じ曲げられて何か別のものに変わってしまう。そのような場をきっかけに、友情関係が生まれるとしても、あくまで集団内で知り合った二人が、集団とは離れたところで一対一の人間関係を築いた結果であって、集団でのコミュニケーションだけでは、生まれなかった関係であろう。一対一で話すからこそ相手との心理的距離を縮めることができるのである。

 僕は集団での人間関係を否定しているわけではない。だが、依存しすぎると、かえって精神に毒になることは確かである。

 それは、かつての凪のような人間だけではなく、陽キャコミュ障タイプであっても当てはまる。周囲に疎まれやすいという状況では、ストレスがその分増えるため、集団での人間関係ばかりに依存してしまうと、それが煩わしくなり、精神を病んでしまうケースは考えられるだろう。

 繰り返すようだが、最も重要な一対一の関係を疎かにし、集団での人間関係に依存してしまうことは、大きな危険を孕んでいる。つまり、陰キャコミュ障の持つ集団での人間関係に依存しにくい特質は、誇るに値することなのだ。

 陰キャのすすめ

 僕が理想としているのは、集団でのコミュニケーションは依存しない程度にとどめ、あくまで一対一の関係を重視する生き方である。『陽キャ』の側からは、『陰キャ』とそしられるかもしれない。だが、今まで見てきたように、「『空気』を読む能力」と「『空気』を作る能力」のどちらが欠けても、集団での人間関係はうまくいかないのである。両方の能力を兼ね備えた人間は、おそらく、空気を読むべき時は読み、作るべき時は作ってうまくやっているのだろうが、そんな芸当ができる人は、かえってレアケースであるし、彼らにしろ、集団での人間関係に満足しているとは限らないはずだ。

 確かに、集団での人間関係を築くことは、一対一の人間関係につながるという点で必要なことではある。しかし、多くの人にとって、お互いに遠慮しあった結果、自分にとってメリットがないことがはっきりしているにもかかわらず、ずるずると関係を続けてしまう場合が多いのではないだろうか。

 この記事では、『陰キャ』を馬鹿にしている『陽キャ』を批判している。しかし、彼らの中にも本人は気づいていないだけで、集団での人間関係に疲れ、本心では『陰キャ』的生き方を欲している人がいるのかもしれない。この記事は、集団での人間関係に苦しむ『陰キャ』に向けて書いたものだが、もし、これをきっかけに『陽キャ』の側から『陰キャ』を見直してくれた人がいれば、望外の幸せである。

なぜ、ブログを始めたか?

 僕は、コミュニケーションが苦手である。人に自分の考えを伝えようとしても、いつも空回りしてしまう。伝えること自体も下手だし、伝えるのに適したタイミングも見極めることができない。したがって、結局何かいいたいこと、自分について知ってほしいことがあっても、口をつむぐか、そうでなければ適当にあしらわれるかのどちらかになることが多い。そこで、このブログを何か他の人に伝えたいがあった時の掃き溜めにしようと思う。

 

 ところで、こうした他者に自分をさらけ出す行為は、とりわけ批判されやすい。厚かましいだとか、自己顕示欲が強いだとか、誰を傷つけようというわけでもないのに、とにかくネガティブなイメージでとらえられる。現に『自分語り』という言葉があるが、この言葉はほぼ例外なく悪い意味で使われている。

 

 こんなことを言うと、「空気を読んだうえでの『自分語り』は許されるではないか。誰も『自分語り』をするなとは言っていない。」、というような声が聞こえてきそうである。しかし、『自分語り』が許されているのは誰であろうか?集団内で上位のヒエラルキーに立つ人間なのである。僕のような常に下位のヒエラルキーにいるような人間には、リアルなコミュニケーションの場で自分語りをすることは必然的に難しくなるのだ。だからこそ、ブログのような場が僕たちにとっては必要なのである。

 

 また、『自分語り』を批判するような人間には理解できないかもしれないが、世の中には僕のような『自分語り』をしたくてたまらない人間もいるのである。思えば、僕の人生は『自分語り』欲求に振り回されてきた人生とも言える。『自分』を誰かに理解してほしくてツイッターに入り浸り、鬱になるまでのめりこんだこともあったし、自己を表現できない場が嫌いで、集団行動にいまいち馴染めず、集団内で孤立することを繰り返してきた。大学に入ってからは、そんな自分を変え集団に適応しようと努力したが結局精神に限界がきて挫折してしまった。ブログを始めるという行為は、『自分語り』の解禁という意味では、集団適応に失敗した僕の末路ともいえる。『自分語り』をしたいという欲求は、結局抑えきれなかったわけだ。以前ツイッターをやったときの失敗を繰り返さないようにやるつもりである。

 

 このブログでは、誰かを傷つけない範囲で、空気を読まず、場をわきまえずに、僕の好きなように発言していきたい。僕のブログを読んで、考えに共感してくれる人が一人でもいたらいいなと思っている。