コミュ障学生の自分語り

コミュニケーションが苦手な文学部生。僕の発言は所属する団体を代表するものではありません。

阿知賀編準決勝先鋒戦の園城寺怜みたいに生きようとすることに疲れた

先日、『夜と霧と阿知賀編』という記事を書いた。↓
https://nakanoazusa.hatenablog.com/entry/2019/11/08/032028

 

この記事は、フランクルを引用しながら、咲の阿知賀編で描かれた園城寺怜と花田煌の闘牌について自分の人生も絡めながら論じたものである。この記事は、別に『夜と霧』を読んでなんとなく阿知賀編と似てるなと思ったから書いたというわけではない。園城寺怜の戦い方が、僕の人生の指針になっていたからだ。『夜と霧』はあくまできっかけに過ぎない。

 

園城寺怜みたいに生きようとし始めたのは、浪人中の話だ。前掲の記事でも書いたが、当時の僕は、受験勉強のモチベーションが全く湧かず苦しんでいた。阿知賀編を見て怜の戦い方に強く心を打たれたのはそんな時だった。辛くなると、怜の闘牌シーンを頭に思い浮かべて勉強に向かう。僕の受験生活はその繰り返しだった。

 

さて、当時以来、僕が今まで指針にしてきた「園城寺怜的生き方」とはなんだろうか。その特徴をここでまとめておく。

 

①常に人生は死と隣り合わせ
②人生を無期限の苦しみと捉える
③常に課題と向き合わなくてはいけない
④常に他者に対して責務を負っている

 

①について
先鋒戦の怜は能力の瀬戸際で死の境をさまよっていた。阿知賀編を始めて見た頃は、勉強が手に付かず、希死念慮が強かったので、怜の姿は、当時の僕の心境に完璧にマッチしていたのだった。しかし、大学入学後も、課題達成か死か、という二択しか許されない人生観をそのまま持ってきてしまった。「死ぬ気でやれよ。死なないから。」という有名な言葉があるが、別に死ぬ気でやったところで、ものすごい努力ができるわけではない。僕の場合、残ったのは、ろくに本も読めずレポートも書けない磨り減ったメンタルだけだった。

 

②について
阿知賀編において、照の連続和了の能力は、怜の苦しみが無期限性を付け加える効果を持っていた。ところで、受験勉強の苦しみにも大いに無期限性はある。どこまで勉強すれば合格できるか不確定で、受験生は常にレベルアップすることを迫られるからだ。「ここまで勉強すれば今日は十分」といった有限性は自分で恣意的に決めるしかない。その恣意的に制限を決めることがとにかく下手だったから、僕にとって、受験勉強は無期限の苦しみに他ならなかった。無期限性を認めた上で受験勉強を戦い抜くために、「園城寺怜的生き方」が必要だったのだ。ところが僕は、大学生活にも、将来独り立ちするという目的のために、無期限の苦しみの感覚を持ってきてしまった。将来のためには常に有意義なことをしなければならず、無意味なことをしてはいけないという強い観念に縛られている。ネットサーフィンやゲームをしたいという欲望を常に抑えることはできない。そのために度々堰を切ったようにネットサーフィンやゲームに興じることがあり、その時間は増える一方だ。無意味な行為をしている自分というのを認めることができないので、そうした行為をすればするほど、希死念慮がますます酷くなっていく。

③について
受験期は学力向上という課題があり、それに取り組むことが常に必要とされていた。大学入学後も、やはりアカデミックな知識の学習が必要とされ、受験期と状況的にはあまり変わらなかった。周りの学生が熱心に勉強を続ける中で、レースについて行けなくなった僕は、すっかり置いていかれてしまった。もうどうやっても追いつくことができないという諦念に支配され、自分を責め続ける日々。いつになったらこの苦しみから解放されるのだろうか。

 

④について
園城寺怜が仲間の存在を励みに戦ったのと同じように、僕は親の存在を支えに受験を戦った。他者性の重要性に受験を通して気づいたのだ。だから入学以降は、何か課題が与えられるたびに他者のためという目的を無理やり作り出した。学力の向上は早い自立を望む親のため、退会者の会を立ち上げたのも人のためになる活動をしたかったからという理由が大きい。だが、他者への貢献で自らの価値を保障しようとしてしまうと、いざ思うようにいかなかった時に自らの命に価値がないと強く感じるようになってしまう。貢献か死かという二択しか許されていないのだ。

 

 

園城寺怜的生き方」と名付けてここまで僕の生き方を解説してきたが、こんなのは、園城寺怜の生き方なんかでは断じてない。咲シリーズを知っている人には言わずともわかることだろう。では、どこが違うのか?

ポイントは、「常に」という言葉だ。

 

(参考
①常に人生は死と隣り合わせ
②人生を無期限の苦しみと捉える
③常に課題と向き合わなくてはいけない
④常に他者に対して責務を負っている)

 

怜が戦った先鋒戦の状況はあくまで例外的な状況で、期限が不確定とはいえ、近い未来に終わるものだった。怜は常にこのような生き方をしてきたわけではない。試合前と試合後は竜華のふとももを枕に休み、移動中には、サービスエリアでホットドッグを買って頬張るような、無意味に思われるような日常を精一杯楽しむ、そんな女の子じゃなかっただろうか。

 

現実とは、宮永照のように強大な敵だ。怜のように大変な思いをしないと戦うことができない。僕は、そんな恐ろしい敵に「常に」挑もうとしてしまった。精神的に追い詰められるのも当然だ。おかけで、今やすっかり疲れ果ててしまった。

 

本当に園城寺怜のように生きるためには、竜華のふともも性が必要である。それは、無意味で、無為で、戦わなくてよくて、誰かのために何かをする必要のない、そんな空間だ。あるところでは怜のように戦わなければならないのは確かだが、そのためには、怜のように休むことのできる場所を確保する必要がある。どうすればいいか。

 

テクニカルな解決策だが、戦う時間をあらかじめ決めておくのが一番だろう。この時間からこの時間までは、勉強するというのをしっかり決めれば、無期限性は消失する。これは、受験期にはできなかったことでなかなか難しい。真剣さと適当さ、義務と遊び、これら両極にあるものをはっきりと分けてしまうことが怖い。だが、戦い続けるためにはもう仕方がないのだと思う。修正しながら自分にあったスケジュールの管理法を見つけていきたい。